隈病院の歴史

「患者中心の全人的医療」
を目指して歩んだ道のり

隈病院は「患者中心の全人的医療」を理念に掲げ、挑戦と革新を繰り返してきました。
現在も甲状腺の専門病院として、より良い医療を追求し続けています。
達成してきたさまざまなイノベーションとともに、私たちのあゆみを紹介します。

1890年

初代院長 隈 鎮雄誕生

九州・長崎大村の地に生を受けた隈鎮雄は、医療の道を目指す。
橋本病の発見者である、橋本 策博士が所属した、九州大学医学部第一外科で学んだ鎮雄は、まだ、甲状腺疾患が世に知られていない当時より、甲状腺医学に強い関心を持ち、やがて甲状腺手術の名手として広く知られるようになっていく。

初代院長 隈 鎮雄誕生。

1928年

野口病院副院長に就任
そして独立へ

その手腕を買われ、大分県別府市の甲状腺疾患専門病院、野口病院の副院長に就任。
日々、医療に邁進する鎮雄に、決断の時が迫っていた。「甲状腺医療の発展のために、独立しないか?」野口病院の院長、野口雄三郎からの要請があったのは1932年のことだった。

野口病院副院長に就任。そして独立へ。

1932年

神戸・花隈に隈病院開院

初代院長である隈鎮雄は、近代化の波が押し寄せていた神戸に、一般外科として開院。当時はまだあまり知られていなかったバセドウ氏病を世に先駆けて診療科目に標榜していた。
隈鎮雄は、インフォームド・コンセントの概念がなかったこの時代に、患者の不安を少しでも和らげるため、バセドウ氏病の手術の概要をわかりやすく紹介した小冊子「バセドウ氏病通俗談」を発行。「患者中心のよりよい医療を届ける」という隈病院の原点は、すでにこの頃から養われていった。

神戸・花隈に隈病院開院

1945年

神戸大空襲という試練

開院から13年、一歩一歩、地域に根づいていた隈病院を、大きな試練が襲う。第二次世界大戦も終わりに近づいた、1945年のことだった。3回の空襲により、神戸の街は焼け野原となるが、隈病院は奇跡的に焼け落ちることはなかった。焼け残った隈病院には、自分の病院や診療所を失った近隣の医師たちが集まり、なんとか診療を続ける。隈病院が、いわば神戸一帯の総合病院としての役割を果たしていたという。

神戸大空襲という試練

1954年

初代院長の子息、
隈 寛二が常勤医に

初代院長の子息・隈 寛二が甲状腺外科医として隈病院の常勤医となる。父・鎮雄と同様に、外科医の道を歩んだ寛二だったが、数多くの患者を診る中で、甲状腺疾患に伴う「心」のケアの重要性に気づいた寛二は、患者のために良いものは、なんでも取り入れようという思想のもと、精神的治療や内科的治療など、甲状腺疾患に対する新たなアプローチに積極的に取り組んでいく。

初代院長の子息、寛二が常勤医に。

1956年

アイソトープ療法の開始

1956年まだ日本の医療機関ではほとんど行われていなかったアイソトープ療法をいち早く取り入れる。後に、隈病院が理念に掲げる、あらゆる視点から患者を見つめた「全人的医療」の礎は、こうして芽生えていった。

アイソトープ療法の開始。

1966年

二代目院長に
「隈 寛二」が就任
甲状腺専門病院へ

二代目院長に「隈 寛二」が就任
甲状腺専門病院へ

1966年1月1日、隈鎮雄に代わり隈寛二が二代目院長に就任。甲状腺医療に病院の未来を見出した寛二は、一般外科を廃止し、隈病院は甲状腺専門病院として歩み始める。
患者の身体と心、予後の生活まで見つめた「全人的医療」の実現を強く望んだ寛二は、従来の外科医に加え、内科医、精神科医、カウンセラーを新たに配置し、幅広いアプローチからの甲状腺治療に注力。この頃より新たな治療法に対する研究も積極的に行われていく。

二代目院長に「隈 寛二」が就任 甲状腺専門病院となる

1981年

個人病院から、
医療法人へ

個人病院から、医療法人へ

隈病院の先進的な甲状腺治療を求め、全国から患者が集まるようになる。
患者数が急速に増えていくなか、よりよい医療の提供には、より安定した病院経営が必要と考えた寛二は組織や経営基盤の整備・強化にも目を向けていく。
「医療法人神甲会」を設立し、初代理事長に就任。木造だった病棟も、鉄筋コンクリートへと建て替えられ、病床は25 床から57 床に。

個人病院から、医療法人へ。

1986年

より多くのアイソトープを 扱うために

より多くのアイソトープを扱うために

アイソトープ治療専用病室を木造から鉛で囲まれた鉄筋コンクリートの病室へ。
本格的なアイソトープ治療が開始された。

1993年

切らないという選択

隈病院の非常勤医であった宮内 昭のもと、甲状腺微小がんに対しては、手術を行うことなく、積極的な経過観察を取り入れた研究を開始する。切らないという選択、それは、後の隈病院の治療方針に大きな影響を及ぼす研究であった。

切らないという選択。

1995年

阪神・淡路大震災発生
神戸の地に再び試練が

1月17日5時46分、震度6の烈震が神戸の街を襲う。
神戸の約半数の病院が倒壊や火災で診療機能を失う中、隈病院もライフラインの寸断など診療機能に深刻なダメージを受けたものの、幸いなことに施設の倒壊など甚大な被害は免れ、スタッフにも受傷者は無かった。
不安と混乱の中、院内のスタッフを集めた寛二は、単なる再生ではなく、ちょっとやそっとの改善でもなく、他を圧倒するレベルで前進し、オンリーワンを目指そうという復興・再生への指針を語ったという。それは、隈病院のその後のビジョンにもつながるものだった。

震災発生。神戸の地に再び試練が。

2000年

特定医療法人に組織変更

「最高の医療をもって患者に寄り添い続ける」という隈病院の根底を流れる理想を叶えるため特定医療法人化の道を選ぶ。

特定医療法人に組織変更。

2001年

三代目院長に 「宮内 昭」が就任

三代目院長に「宮内 昭」が就任

宮内 昭が三代目院長として就任。
「最高の医療」を生み出し、甲状腺医療の未来に還元しつづけること。この理念のもと、よりよい医療の提供に向けたさまざまな研究や改善がより積極的に行われていく。
研究結果に基づくエビデンスから、声帯への障害を避ける神経モニタリングといったイノベーティブな治療が次々と生まれる。

三代目院長に「宮内 昭」が就任

2003〜2005年

大規模改修を実施

隈病院の革新的な医療が、広く世間に認められ、年間数万人もの外来診療患者が全国から来院。手術実績も急増していく。
患者が快適に通院できることはもちろん、スタッフが誇りを持って働ける病院であるために、大規模改修を実施し、病床数58床に増床。同時に電子カルテシステムを導入。

大規模改修を実施。

2010年

二代目理事長に
「隈 夏樹」が就任

二代目理事長に「隈 夏樹」が就任

2010年3月、隈夏樹が理事長に就任。医師ではなく、ITの世界から転身した夏樹は、業務効率化や医療安全の視点から、病院業務のIT化を強力に推進していく。
宮内院長との二人三脚のもと、医師が医療や研究に専念できる環境が整備され、医療現場と経営の両輪が力強く回りはじめる。

二代目理事長に「隈 夏樹」が就任

2015年

隈病院の治療方針が
世界の指針に

1993年より宮内昭によって進められてきた甲状腺微小がんの積極的経過観察の研究が、世界で最も権威のある「アメリカ甲状腺学会」で評価され甲状腺腫瘍取扱ガイドラインに採用される。
米国で開催された国際甲状腺会議の特別公演で、隈病院は甲状腺がんに関する最近10年の施設別論文数で世界4位と報告され、世界の甲状腺医療に貢献していることが高く評価される。

隈病院の治療方針が世界の指針に。

2016年

院内保育所
こぐまえん開園

院内保育所 こぐまえん開園

院内保育所「こぐまえん」開園。
企業主導型保育事業として内閣府から許可を得てオープンしたこの保育所は、隈病院で働く育児世代のスタッフが、早期復帰し、より安心して働けるための取組みとしてスタートした。

院内保育所 こぐまえん開園。

2021年

人と環境に配慮した
大規模改築がスタート

医療安全のいっそうの向上はもちろん、消費エネルギーの最小化、地域環境まで配慮したサスティナブルな医療サービスの提供を見つめ、人と環境に配慮した大規模改築がスタート。2024年に完成。

人と環境に配慮した大規模改築がスタート。

2022年

四代目院長に 「赤水 尚史」が就任

四代目院長に「赤水 尚史」が就任

赤水 尚史が四代目院長として就任。
三代目院長 宮内 昭は名誉院長として診療を継続。

四代目院長に「赤水 尚史」が就任